2017年1月18日水曜日

僕が結婚して、妻の名字を選んだ理由 【ハフポス】

「僕が結婚して、妻の名字を選んだ理由」


正直、よくわからない内容だ、と思った。

筆者が彼の「信念」に基づいて、妻の名字を選んだのは、まあそうならそうでいいのだが、

「妻の名字を選ぶこと」と筆者の言う「家族感」と「ジェンダー平等」について、矛盾を感じる。



1.家族感について

筆者は、「結婚した後、家族で名字を共有したかった」らしい。

それはなぜなのかよくわからないが、妻となる人とは名字をき共有したいらしい。

しかし、後に「同じ経験を共有し、共に努力することこそが家族をつくると思う。名字ではない。」と述べている。

名字で家族の絆はつくれない、というくせに、妻とは家族だから名字を共有したいのか。

どっちだよ、と思う。

(翻訳がおかしいのかと思って、原文を見たけれど、大きくずれた翻訳だとは思わなかった。)



2.ジェンダー平等について

筆者は、自分が名字を変えることで、周囲に自分と妻の関係は「ジェンダー平等だ」と主張できるとしている。

それが「ジェンダー平等の常識を破る」(正しく翻訳するとすれば「ジェンダーの常識を破る」だと思うが)、ということらしいが、

夫婦別姓を選択できるアメリカでそれをすることが、果たして本当に「ジェンダー平等」なのか、わたしにはわからない。

そして、他人に「妻の名字を選んでやったぜ、ジェンダー平等だろ?おれら」と言いたい理由もよくわからない。



以上二つの観点から、この筆者の主張はよくわからなかったが、

言えることは、

「名字をどちらにしようね?二つとも名乗る?それとも別姓?」と、夫婦間で話し合いの末決める、というのは、大切だといいことと、

話し合う上で選択肢が色々ある、ということは、必要なことだ、ということだ。

日本において、そもそも話し合いをもってくれる「男性」は少ないだろうし、そもそも現時点ではどちらかの名字を名乗ることしか選択肢はない。

悲しいことだ。

2016年11月20日日曜日

東京中心主義

東京の人とは、話が合わない。

というと、とても語弊があるけれど、

東京(中央)中心に正解が回っている人の話を聞くと、大変な違和感を抱く。



いつから私は田舎者になってしまったのだろう。



そう強く感じたのは、高校のOB会でとある講演を聞いた時だった。

某民間営利企業で全国の道の駅の活性化事業に携わった方の講演だった。

話の骨子はこうだ。

・某企業で車事業に関わる中で、道の駅に出会った。

・しかし、当時の道の駅は、立派な建物を行政がつくり、運営は適当。民間に言わせれば、あり得ない(広報も、サービスもすべて改善の余地がある)状態。

・全国で道の駅がどんどんできる中で、道の駅同士の統一感はない。

・そこで、その某企業で、道の駅のブランド化に乗り出した。

・道の駅の売りは「田舎らしさ」。それを出すことのできる企画を考えた。

・道の駅の統一ロゴマークを作ったり、道の駅をめぐるツアーを企画したりした。

・道の駅に東京などの都会から人を呼んで、そこで買いたいと思うものを見つけてもらう。そして、それが東京で手に入るような仕組みづくりを目指した。

・地産地消という言葉はもう古くて、地産他消が必要という認識。

・一時的には活性化したが、結局9年で事業は頓挫。その企業は手を引くこととなった。

・理由は、行政と民間営利企業との様々な調整がうまくいかない事(民間営利企業は地方では嫌われる、と演者は言っていた)、採算がその企業の基準と合わなかった事だ。



学生の頃からまちづくりに関わったり、田舎の住人たちと関わったりしてきた私としては、この話、なんという違和感!と思った。

何せ、この話には、地元の人は一切出てこない。どこへ行ってしまったんだろう。

そこで、聞いてみた。

「地元の人ってどうしてたんですか?」

「地元の人は、無理だよ。関心ないしやる気もないもん。民間企業が入ってくるとやっぱり敬遠されるんだよね」



あーーー、気づいてない。

私の感じている違和感を、きっと地元の人も感じていることに気づいていない。




だって、強引すぎやしないか。

都会から人がやってきて、勝手にあなたたちのいいところは「田舎らしさ」ですよ、と評価し、勝手に都会から観光客を呼び、特産品を東京で売れ、という。

なんという勝手。なんという上から目線。なんという東京中心主義。




東京の人たちの観光施設のために野菜作って直売所やってるんじゃないんですけど。

東京の人に評価されるために「田舎」の暮らしをしてるんじゃないんですけど。

東京の人たちが「田舎らしさ」に触れるために、特産品を東京で売らなきゃいけないんでしょうか。



私は、地域の経済は地域で回っていけばよい部分もあると思う。

演者の言っている「田舎らしさ」は、おそらく田舎の人々の日々の暮らしで、彼らは日々のなんでもない日常のために、農作物を作り、魚をとり、漬物をつくっている。



もちろん、ブランド化に成功し、高付加価値の商品を東京に目がけて売っている生産者もいる。

でも、それは「特別なもの」であって、限られた人が限られた時にアクセスするものだ。




日々の食と暮らしを支えているのは、なんでもない普通の「田舎のくらし」だ。

それをなんでもかんでもブランド化することは、都会の人のエゴだと私は思う。

東京で「田舎のくらし」を売らなくたっていいじゃない。東京のために田舎は、地方はあるのではないのだから。




そしてなにより、地元の人を置いてけぼりにした、地方創生なんかありえない。

誰のための地方創生なのか。

それを考えることなしに、地方を語らないでほしい。


と、地方でしか暮らしたことのない私は思うのです。



そして、東京中心主義の恐ろしさは、


「東京の電気代が高くなるので、柏崎刈羽原発は動かしてもらわないと困る」とか、

「沖縄が米軍基地を担え」とか、

そういう問題にも現れていると思います。

地方の人間をなんだとおもっているのか、というのが近頃の私の不満です。






















2016年1月27日水曜日

不思議不思議

職場のオッサンたちと話すと、程度の差こそあれ、妻を養ってやってるぜ、的な人がほとんどです。

私の職場にいる35以上のオッサンの妻は、仕事を辞め、夫の転勤に帯同しています。

そして、彼らと結婚観の話をすると、男は女を養うもの、という意識が感じられます。

他方、そのオッサンたちは私に総合職として、金融マンの卵として、ある程度の期待をしてくれているのを感じます。

若い男性職員たちと同等に、もしくは私が院卒ということもあって、それ以上の期待をしてくれているように思えます。

そして、オッサンはみな口々に、うちの会社は女の人が働きやすいからね。

女の人も対等に働けるよ、活躍できるよ、というわけです。



大変不思議な現象ですよね。

自分の妻には、専業主婦をさせ(もちろん本人がしたいと言った場合もあるだろうけど)、養ってあげてる、少なくとも僕が養わないといけないんだ、と思っている。

他方で、私には職場の部下として期待をする。


でも、私もオッサンたちの妻と同じようにオンナであるのです。


なんという矛盾。

別の生き物だと思っているのかしら。


なんとも言えない違和感の中で私は毎日仕事をしています。



ここで誤解しないでいただきたいのは、私は、仕事をやめて養ってもらいたい、とは1mmも思っていません。

むしろ、私の彼氏は不安定な職にあり、私が養うかもしれないのです。

なんなら、オッサンがたと同じ立場になるかもしれないのです。


だから、私だってオッサンたちが歩んできたように、できるだけ仕事で評価されたいし、同期と競うように出世だってしたいし。

でも、オンナだからこそ(ほんとは、オトコも思うのかも)思うこともあるのです。


結婚したら出産して育休だって最低半分は取りたい。

半分は夫がとってもいいけど、半分は私が取りたい。


でもそうしたら、オッサンになりゆく同期に遅れをとるのではないか、そんな不安もあるわけです。


いわゆる"女"としての私と、一家の大黒柱になるかもしれないいわゆる"男"としての私の、この二重性は、私には、重すぎます。

少なくとも今の日本社会を生き抜くには。


どうして、誰もが、家庭も仕事も追及できる生き方が選べないんだろう。


欲張りなのかな。

2015年11月29日日曜日

パリテロ事件

パリのテロ事件のあと、なんとも悶々とした気持ちをずっともっている。

平和ってなんなんだろう、とか

国際協力・交流と地域づくりに学生時代身を置いてきた自分のしてきたことはなんだったんだろう、とか

今まで出会ったフランス人の友達、そしてイスラム教の友達、彼らは何を考えるだろう、とか

そんな答えの出ないハテナをぼんやりと思い浮かべたりはしていたけれど、

それでもいつもの日常はやってきて、会社に行けばただただ目の前の仕事に追われる毎日だった。

なんとも言えない、落ち着かない気持ちが私の心を覆った。


自分のその気持ちの表しようをわからないまま、今日まできてしまったわけだけれど、

ひとつ、私の気持ちの一部を表す言葉たちに出会った。

西加奈子さんのブログである。



私はテヘランで産まれ、カイロで育った。1977年に産まれ、1979年には革命が起こって帰国したので、テヘランのことは覚えていない。だが、カイロにいたのは7歳から11歳の多感な時期であったから、そのときの体験は強烈なものとして私の中にある。
 カイロ、と聞いて真っ先に思い出すのはアザーンだ。人々を祈りに誘うその声は、歌のようにも聞こえたし、泣き声のようにも、誰かを慰める声のようにも聞こえた。言葉をまったく理解出来なかったからこそ尚更、その声の奥にある切実さやまっすぐな想いは、私の心に届いた。
アザーンが聞こえると、人々はどこであろうとサッジャーダと呼ばれる礼拝用のカーペットを敷き、それを持たないものは地面に直接ひざまづいて祈りを捧げた。祈りとは教会で、または神社で、つまりなんらかの決められた場所でするものだと思っていたから、彼らのやり方に私は驚いた。祈り終えると彼らはなめらかに自分たちの日常に戻った。祈りと日常の間に境がなかった。「一応仏教徒」である私が初めて触れた信仰は、とても美しかった。
 私が住んでいたフラットのボアーブ(門番)も、敬虔なイスラム教徒だった。年老いた男性で、すごく太っていて、いつも顔をくちゃくちゃにして笑った。多くのエジプシャンと同じように子供が大好きで、だから私のことをとてもかわいがってくれた。フラットの前に置いてある椅子に座り、お茶を飲み、私の姿を見かけると、必ず手を振った。
私は彼が祈っている姿を、何度も見たことがあった。彼は時間になると熱心に祈り、そして祈り終えると、なめらかに彼の日常に戻った。お茶を飲み、私に手を振り、そしてあの笑顔を見せた。その姿は他の信徒と同じように美しく、私をいつも感動させた。もちろん、私は彼のことが大好きだった。
 クリスマスの朝のことだ。彼はフラットを出た私に、メリークリスマス、と声をかけてくれた。私も「メリークリスマス」と返した。家に帰って家族にその話をすると、両親は「イスラム教徒なのにね」と言って笑った。両親も彼のことが大好きだった。私たちはエジプト人が好むいささか甘すぎるケーキを食べ、クリスマスを祝った。私たちも仏教徒なのに、とは、誰も言わなかった。
 カイロにいた数年間、私は様々なイスラム教徒に出逢った。彼らは一様に敬虔だったが、その敬虔さによって自分が疎外されていると感じることは一度もなかった。ただの一度もだ。
 それはひとえに、彼らの柔らかさによってではなかったか、そう思う。
 彼らの信仰は強かった。彼らはイスラム教という強い枠の中にいた。だが彼らはその枠を使って我々を排除することはしなかった。彼らの枠は強かったが、とても柔らかかった。彼らは「異教徒」である私と交わろうとしてくれた。
メリークリスマス、と優しく言ってくれた彼の柔らかさは、彼のためではなく、私のために、つまり他者のためにあった。そしてそのことで、彼の信仰はきっと揺るがなかっただろうし、彼らの神を冒涜したことにもならなかったはずだ。それどころか、他者を思うその気持ちこそ、彼らの神が彼らに教えたことなのではなかったか。


我々は枠の中にいる。例えば国、例えば性別、例えば宗教。
そもそも私たちの体それ自体も枠だ。我々は枠からは逃れられない。でも、その枠を柔らかくすることは出来るはずだ。他者のために形を変え、寄り添うことが出来るはずなのだ。
 今ISは、欧米列強が作った枠を壊そうとしている。だがその枠を壊したところで、彼らはまた強固な枠を作る。それは鋭利で、硬質で、枠外にいる者を徹底的に排除し、傷つけ、殲滅する。彼らは硬い。とにかく硬いのだ。それはきっと、他者と交わる勇気を持たない人間の硬さだ。
 世界は曲線で出来ている。
思えば直線で出来ているものは、すべて人間が作った。頑丈なビルや道路、中東やアフリカに存在する定規で引かれたような国境。人間それ自体が曲線で出来ているというのに。
メリークリスマスと言い合ったあの瞬間、私たちは「イスラム教徒」でもなく、「仏教徒」でもなく、「キリスト教徒」でもなかった。もしかしたら「エジプシャン」でも「日本人」でも、「男」でも「女」でもなかったのかもしれない。我々は曲線で出来た人間同士として、「 」から離れ、あの柔らかな場所にいたのだ。私はその瞬間を忘れることが出来ないし、絶対に忘れたくない。他者のために柔らかさを選ぶ勇気を手放さないでいたい。






私は、小学生の時に彼女と同じ、エジプトのカイロにいた。

あー、そうだったな、と思った。

イスラム教徒が大多数を占める国だから、ラマダンのときは、町がラマダン一色になる。

私は、当時ホテルに住んでいて、ある日エジプト人のホテルのボーイ(いつも私にアラビア語を教えてくれていた)に

「ラマダンはしてるの?」

と聞いた。

彼は、いつも学校から帰る私を迎えてくれるのとおんなじ笑顔で「I am Christian.」と答えた。

あ、そうなんだ、と私はなんとも思わなかった。

彼が笑顔で、キリスト教徒であると言ったのも、私が、そこになんの疑問ももたなかったのも、エジプト人たちの柔らかさゆえだったんだ、と気付いた。

エジプトには、少数のキリスト教徒も住んでいる。

彼らは共存していた。

9.11が起きたときも、イスラム教国は危険だと騒がれたが、カイロのまちはいつもと変わらなず至って穏やかだった。

西さんの言うように、確かに彼らは柔らかさを持っていたんだ。



そんなことを考えていたら、朝ドラの「あさが来た」で、新次郎さんが行っていた言葉を思いだす。

あんたのやらかいとこに触れるたんびに『ああ かなわへんな』っていつもそない思うで。相手まかしたろうと思うて武器もつやろ。そしたら相手はそれに負けんようにもっと強い武器もって、そしたらこっちはもっともっと強い武器を。て こら太古の昔からアホの男の考えるこっちゃ。」


「やらかい心」

これに尽きるんだな、と思う。

それはきっと、

どこの国の人、とか、どこの地域の人、とか、何の宗教の人、とか、男、とか、女、とか、

そういうのを超えていくんだろうな。



枠からはみ出た何かを排除する、というやりかたは、地域づくりにおいても、国際協力においても馴染まない。

枠を超えて人と人とがつながり、やらかい心で接していくことが、未来をつくるんではないでしょうか。


2015年11月25日水曜日

大好きな日本

そういえば、カナダにいたとき、移民が集まる公民の授業で、法治国家の成り立ちや民主主義を学ぶ無人島サバイバルグループワークの中での出来事でした。

私たちは、中国人、韓国人、イラン人、ロシア人、日本人からなる多国籍グループでした。


先生「ある日無人島にこのグループの5人と漂着しました。

あなたたちは、ここでみんなで生きていかなければなりません。

みんなで確保した食べ物を独り占めする人がいるかもしれません、それを防ぐためにどうする?」

私たち「ルールをつくる」

先生「そうだね、そしたらそれを破る人がいたとする、どうする?」

私以外のグループメイト「罰を与える」

私「どうしてその人がルールを破ってしまったのか話し合います、何か理由があるかもしれないし」

といいました。

私は、罰を与える前に当然、対話によって解決できるならするべきだと思いました。

そして、おそらく日本でこのワークをやったら、少なからずこういう意見は出るだろうと思いました。

だから、カナダで私しか対話という意見を言う人がいなかったので、とてもびっくりしたのを覚えています。

そうか、世界は、ルールを破れば、秩序を乱せば、panishment (罰)なんだと。

と同時に、平和的に解決したいと思えた私、そういう考え方を私に教えてくれた日本という国を私は誇りに感じたのを覚えています。

私が小さい頃の教育は、戦後の反省から日本は武力をすて、武力をもって物事を制するのをやめたのです、としつこく聞かされた気がします。

日本国憲法の前文、第9条、第11・12条、第24条を暗記させられました。

それくらい、日本は戦後に反省の意をこめ作られた憲法を大切にしてきたのではなかったのでしょうか。

海外にいるとき、私は、戦争をし、残虐な行為を繰り返してきた歴史をもつ日本という国の人間であることに、どこか引け目を感じていました。

愛国心は危険なものだと思っていたし、だとしたら、日本人というアイデンティティなんていらない、と思っていました。

でも、そうか今は武力を捨て、平和への道を歩いているんだ、それが日本人らしさなんだ、その日本人らしさが私にはきちんと根付いているんだ、と感じたときに、私は初めて日本が好きだと思うことができました。



しかし、近頃はそんな日本もきっとなくなってしまうのですね。

もうなくなってしまったかもしれません。

そう思うと、残念でなりません。




2015年11月24日火曜日

トリコロールについて

1113日のパリのテロ事件のあと、Facebook上で少々の騒動があった。

そのことについて私なりの意見を述べたい。



事の発端は、Facebookのプロフィール画像にフランスの国旗であるトリコロールを重ねる機能が登場したことだった。

その機能をめぐり、トリコロール化した人と、しない人という一種の小さな対立構造ができた。

そもそもこの機能がパリのテロ事件で犠牲になった人々への哀悼の意を表する目的のものである。

トリコロール化した人たちの大半はそういう想いなのだろう。

そのため、トリコロール化しない人からは、

「パリ市民に対しては哀悼の意を表するのになぜ中東の戦争の犠牲者にはしないんだ」

という批判があった。

それに対して、一部のトリコロール化した人たちは、

「私にはフランス人の友人がいる。友人の祖国が被害にあい、それに対して祈ることは、とても全うな感情だろう」

という。

それももっともである。



私とは言えば、

イスラム教の友達がシェアしていた

I Dont Pray For Paris!
In fact I cant pray for Paris solely when I know what has happened in Paris last night is the everyday life of many people in less fortunate countries and ironically people are so desensitized to those countries that they actually think thats the way those countries should be. But NO, Terror is terror; it doesn't matter where is happening. If we support those countries and won't get fooled by the medias then we would have a safer world which eventually ends up to have a safer country, a safer city and a safer home.
I dont pray for Paris BUT I Do pray for a better and safer world."

という文言をシェアした。

つまり、トリコロール化しないことを選択したのである。

私には、エジプトに住んだ経験と、カナダに暮らした時の友人の中にイラン人が多くいたことから、おそらくイスラム教を割と身近に感じていたし、今回の事件でイスラム教の人たちへの風当たりが強くなるかもしれないことに、心を痛めていたからだ。

上の投稿をシェアしていた友達もカナダ時代のイラン人の友達だ。

もっとも、私のイラン人の友達がどういう気持ちで上の投稿をシェアしたかは、私には知りようがないけれど。



私はトリコロール化する人を批判的に見たりはしない。

なぜなら、彼らには、フランス人の友達がいるし、もしくは日本にとってフランスという国はおそらくイスラム教の国より、身近に感じられると思うからだ。


ただ、そのことに大して無自覚であり、流行したから、という理由だけでトリコロールにするひとが大勢いるかもしれない、と思うと少し危機感を覚えるのだ。

自分がなぜその主張をするのか、ということに無自覚であることは、自分の主張が周りに及ぼす影響に対して無自覚であることと同じで、

それは、社会を作っていく私たち市民にとって、とても罪なことだと私は思うのである。

2015年11月17日火曜日

2014年5月22日

ちょうど1年半ほど前、私はこんなことを日記に書いていました。

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2014522

就活を終えてみて、私の将来が輝かしいものになるかどうかは、今はさっぱりわからない。
けれども、輝かしいものに自分でしていくものだ、と気づけたことは、就活が少しは私の糧になっている証拠だと思う。

総じて、私の就活は、上手くいったとはいいがたい。
もともと不器用だったし、はったりもかませない、説明もへたくそ。
こんな私がどうして今までの人生を上手くやり過ごしてきたのかは、甚だ疑問だけれども、挫折と呼べる挫折を経験しないで私はここまできた。
そんな私が、これだけ壁に何度もぶつかったのは、就活が初めてだったと思う。
その壁を乗り越えたのか、壊したのか、避けたのかはよくわからないけれど、前に進もうと今は思えている。
前を向いて、自分の道を将来を切り開いていきたいと思えている。

My girls. Grow old along with me. The best is yet to be. If some decades later you look back on your time with us here and you feel that these were the happiest days your life, then I must say your education will have been a failure. Life must improve as it takes its course. Your youth you spend in preparation because the best things are never in the past, but in the future. I hope that you pursue life, and hold onto your hope and your dream until the very end of the journey.

私の愛する生徒たちよ。我と共に老いよ。最上のものはなお後に来たる。今から何十年後かに、あなた方がこの学校生活を思い出して、あの時代が一番幸せだった、楽しかったと心の底から感じるのなら、私はこの学校の教育が失敗だったと言わなければなりません。人生は進歩です。若い時代は準備の時であり、最上なものは過去にあるのではなく、将来にあります。旅路の最後まで、希望と理想を持ち続け進んでいくものでありますように。

花子とアンのブラックバーン校長先生には、励まされました。

ドンピシャでこの言葉が来たので、泣いてしまいました。


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この日、私は何やら決意をしていたみたい。

あのころから私は、何か変わったでしょうか。
前に進めているでしょうか。

でも、これからどうなるかわからないことだらけで、ふわっふわしていたあの頃の私より、
もう少し地に足がついて、リアルに物事を考えられている気がします。

輝かしい未来を作れるかどうかはわからないけれど、兎にも角にも目の前のやるべきこと、やりたいことに、正面からぶつかろう、そしてこなしていこう、と思っているのです。

そして、世の中のいろんなことに興味持って、吸収して、目の前の課題を考えていかんと、と思っています。

「ようよう考えてな。ようよう考えて進んだ道には必ず新しい朝が来る。
その道を信じて進んだらええのや」

新次郎さんの最も共感した言葉。

朝ドラフリークは、今も変わらぬようです。