2015年11月29日日曜日

パリテロ事件

パリのテロ事件のあと、なんとも悶々とした気持ちをずっともっている。

平和ってなんなんだろう、とか

国際協力・交流と地域づくりに学生時代身を置いてきた自分のしてきたことはなんだったんだろう、とか

今まで出会ったフランス人の友達、そしてイスラム教の友達、彼らは何を考えるだろう、とか

そんな答えの出ないハテナをぼんやりと思い浮かべたりはしていたけれど、

それでもいつもの日常はやってきて、会社に行けばただただ目の前の仕事に追われる毎日だった。

なんとも言えない、落ち着かない気持ちが私の心を覆った。


自分のその気持ちの表しようをわからないまま、今日まできてしまったわけだけれど、

ひとつ、私の気持ちの一部を表す言葉たちに出会った。

西加奈子さんのブログである。



私はテヘランで産まれ、カイロで育った。1977年に産まれ、1979年には革命が起こって帰国したので、テヘランのことは覚えていない。だが、カイロにいたのは7歳から11歳の多感な時期であったから、そのときの体験は強烈なものとして私の中にある。
 カイロ、と聞いて真っ先に思い出すのはアザーンだ。人々を祈りに誘うその声は、歌のようにも聞こえたし、泣き声のようにも、誰かを慰める声のようにも聞こえた。言葉をまったく理解出来なかったからこそ尚更、その声の奥にある切実さやまっすぐな想いは、私の心に届いた。
アザーンが聞こえると、人々はどこであろうとサッジャーダと呼ばれる礼拝用のカーペットを敷き、それを持たないものは地面に直接ひざまづいて祈りを捧げた。祈りとは教会で、または神社で、つまりなんらかの決められた場所でするものだと思っていたから、彼らのやり方に私は驚いた。祈り終えると彼らはなめらかに自分たちの日常に戻った。祈りと日常の間に境がなかった。「一応仏教徒」である私が初めて触れた信仰は、とても美しかった。
 私が住んでいたフラットのボアーブ(門番)も、敬虔なイスラム教徒だった。年老いた男性で、すごく太っていて、いつも顔をくちゃくちゃにして笑った。多くのエジプシャンと同じように子供が大好きで、だから私のことをとてもかわいがってくれた。フラットの前に置いてある椅子に座り、お茶を飲み、私の姿を見かけると、必ず手を振った。
私は彼が祈っている姿を、何度も見たことがあった。彼は時間になると熱心に祈り、そして祈り終えると、なめらかに彼の日常に戻った。お茶を飲み、私に手を振り、そしてあの笑顔を見せた。その姿は他の信徒と同じように美しく、私をいつも感動させた。もちろん、私は彼のことが大好きだった。
 クリスマスの朝のことだ。彼はフラットを出た私に、メリークリスマス、と声をかけてくれた。私も「メリークリスマス」と返した。家に帰って家族にその話をすると、両親は「イスラム教徒なのにね」と言って笑った。両親も彼のことが大好きだった。私たちはエジプト人が好むいささか甘すぎるケーキを食べ、クリスマスを祝った。私たちも仏教徒なのに、とは、誰も言わなかった。
 カイロにいた数年間、私は様々なイスラム教徒に出逢った。彼らは一様に敬虔だったが、その敬虔さによって自分が疎外されていると感じることは一度もなかった。ただの一度もだ。
 それはひとえに、彼らの柔らかさによってではなかったか、そう思う。
 彼らの信仰は強かった。彼らはイスラム教という強い枠の中にいた。だが彼らはその枠を使って我々を排除することはしなかった。彼らの枠は強かったが、とても柔らかかった。彼らは「異教徒」である私と交わろうとしてくれた。
メリークリスマス、と優しく言ってくれた彼の柔らかさは、彼のためではなく、私のために、つまり他者のためにあった。そしてそのことで、彼の信仰はきっと揺るがなかっただろうし、彼らの神を冒涜したことにもならなかったはずだ。それどころか、他者を思うその気持ちこそ、彼らの神が彼らに教えたことなのではなかったか。


我々は枠の中にいる。例えば国、例えば性別、例えば宗教。
そもそも私たちの体それ自体も枠だ。我々は枠からは逃れられない。でも、その枠を柔らかくすることは出来るはずだ。他者のために形を変え、寄り添うことが出来るはずなのだ。
 今ISは、欧米列強が作った枠を壊そうとしている。だがその枠を壊したところで、彼らはまた強固な枠を作る。それは鋭利で、硬質で、枠外にいる者を徹底的に排除し、傷つけ、殲滅する。彼らは硬い。とにかく硬いのだ。それはきっと、他者と交わる勇気を持たない人間の硬さだ。
 世界は曲線で出来ている。
思えば直線で出来ているものは、すべて人間が作った。頑丈なビルや道路、中東やアフリカに存在する定規で引かれたような国境。人間それ自体が曲線で出来ているというのに。
メリークリスマスと言い合ったあの瞬間、私たちは「イスラム教徒」でもなく、「仏教徒」でもなく、「キリスト教徒」でもなかった。もしかしたら「エジプシャン」でも「日本人」でも、「男」でも「女」でもなかったのかもしれない。我々は曲線で出来た人間同士として、「 」から離れ、あの柔らかな場所にいたのだ。私はその瞬間を忘れることが出来ないし、絶対に忘れたくない。他者のために柔らかさを選ぶ勇気を手放さないでいたい。






私は、小学生の時に彼女と同じ、エジプトのカイロにいた。

あー、そうだったな、と思った。

イスラム教徒が大多数を占める国だから、ラマダンのときは、町がラマダン一色になる。

私は、当時ホテルに住んでいて、ある日エジプト人のホテルのボーイ(いつも私にアラビア語を教えてくれていた)に

「ラマダンはしてるの?」

と聞いた。

彼は、いつも学校から帰る私を迎えてくれるのとおんなじ笑顔で「I am Christian.」と答えた。

あ、そうなんだ、と私はなんとも思わなかった。

彼が笑顔で、キリスト教徒であると言ったのも、私が、そこになんの疑問ももたなかったのも、エジプト人たちの柔らかさゆえだったんだ、と気付いた。

エジプトには、少数のキリスト教徒も住んでいる。

彼らは共存していた。

9.11が起きたときも、イスラム教国は危険だと騒がれたが、カイロのまちはいつもと変わらなず至って穏やかだった。

西さんの言うように、確かに彼らは柔らかさを持っていたんだ。



そんなことを考えていたら、朝ドラの「あさが来た」で、新次郎さんが行っていた言葉を思いだす。

あんたのやらかいとこに触れるたんびに『ああ かなわへんな』っていつもそない思うで。相手まかしたろうと思うて武器もつやろ。そしたら相手はそれに負けんようにもっと強い武器もって、そしたらこっちはもっともっと強い武器を。て こら太古の昔からアホの男の考えるこっちゃ。」


「やらかい心」

これに尽きるんだな、と思う。

それはきっと、

どこの国の人、とか、どこの地域の人、とか、何の宗教の人、とか、男、とか、女、とか、

そういうのを超えていくんだろうな。



枠からはみ出た何かを排除する、というやりかたは、地域づくりにおいても、国際協力においても馴染まない。

枠を超えて人と人とがつながり、やらかい心で接していくことが、未来をつくるんではないでしょうか。


2015年11月25日水曜日

大好きな日本

そういえば、カナダにいたとき、移民が集まる公民の授業で、法治国家の成り立ちや民主主義を学ぶ無人島サバイバルグループワークの中での出来事でした。

私たちは、中国人、韓国人、イラン人、ロシア人、日本人からなる多国籍グループでした。


先生「ある日無人島にこのグループの5人と漂着しました。

あなたたちは、ここでみんなで生きていかなければなりません。

みんなで確保した食べ物を独り占めする人がいるかもしれません、それを防ぐためにどうする?」

私たち「ルールをつくる」

先生「そうだね、そしたらそれを破る人がいたとする、どうする?」

私以外のグループメイト「罰を与える」

私「どうしてその人がルールを破ってしまったのか話し合います、何か理由があるかもしれないし」

といいました。

私は、罰を与える前に当然、対話によって解決できるならするべきだと思いました。

そして、おそらく日本でこのワークをやったら、少なからずこういう意見は出るだろうと思いました。

だから、カナダで私しか対話という意見を言う人がいなかったので、とてもびっくりしたのを覚えています。

そうか、世界は、ルールを破れば、秩序を乱せば、panishment (罰)なんだと。

と同時に、平和的に解決したいと思えた私、そういう考え方を私に教えてくれた日本という国を私は誇りに感じたのを覚えています。

私が小さい頃の教育は、戦後の反省から日本は武力をすて、武力をもって物事を制するのをやめたのです、としつこく聞かされた気がします。

日本国憲法の前文、第9条、第11・12条、第24条を暗記させられました。

それくらい、日本は戦後に反省の意をこめ作られた憲法を大切にしてきたのではなかったのでしょうか。

海外にいるとき、私は、戦争をし、残虐な行為を繰り返してきた歴史をもつ日本という国の人間であることに、どこか引け目を感じていました。

愛国心は危険なものだと思っていたし、だとしたら、日本人というアイデンティティなんていらない、と思っていました。

でも、そうか今は武力を捨て、平和への道を歩いているんだ、それが日本人らしさなんだ、その日本人らしさが私にはきちんと根付いているんだ、と感じたときに、私は初めて日本が好きだと思うことができました。



しかし、近頃はそんな日本もきっとなくなってしまうのですね。

もうなくなってしまったかもしれません。

そう思うと、残念でなりません。




2015年11月24日火曜日

トリコロールについて

1113日のパリのテロ事件のあと、Facebook上で少々の騒動があった。

そのことについて私なりの意見を述べたい。



事の発端は、Facebookのプロフィール画像にフランスの国旗であるトリコロールを重ねる機能が登場したことだった。

その機能をめぐり、トリコロール化した人と、しない人という一種の小さな対立構造ができた。

そもそもこの機能がパリのテロ事件で犠牲になった人々への哀悼の意を表する目的のものである。

トリコロール化した人たちの大半はそういう想いなのだろう。

そのため、トリコロール化しない人からは、

「パリ市民に対しては哀悼の意を表するのになぜ中東の戦争の犠牲者にはしないんだ」

という批判があった。

それに対して、一部のトリコロール化した人たちは、

「私にはフランス人の友人がいる。友人の祖国が被害にあい、それに対して祈ることは、とても全うな感情だろう」

という。

それももっともである。



私とは言えば、

イスラム教の友達がシェアしていた

I Dont Pray For Paris!
In fact I cant pray for Paris solely when I know what has happened in Paris last night is the everyday life of many people in less fortunate countries and ironically people are so desensitized to those countries that they actually think thats the way those countries should be. But NO, Terror is terror; it doesn't matter where is happening. If we support those countries and won't get fooled by the medias then we would have a safer world which eventually ends up to have a safer country, a safer city and a safer home.
I dont pray for Paris BUT I Do pray for a better and safer world."

という文言をシェアした。

つまり、トリコロール化しないことを選択したのである。

私には、エジプトに住んだ経験と、カナダに暮らした時の友人の中にイラン人が多くいたことから、おそらくイスラム教を割と身近に感じていたし、今回の事件でイスラム教の人たちへの風当たりが強くなるかもしれないことに、心を痛めていたからだ。

上の投稿をシェアしていた友達もカナダ時代のイラン人の友達だ。

もっとも、私のイラン人の友達がどういう気持ちで上の投稿をシェアしたかは、私には知りようがないけれど。



私はトリコロール化する人を批判的に見たりはしない。

なぜなら、彼らには、フランス人の友達がいるし、もしくは日本にとってフランスという国はおそらくイスラム教の国より、身近に感じられると思うからだ。


ただ、そのことに大して無自覚であり、流行したから、という理由だけでトリコロールにするひとが大勢いるかもしれない、と思うと少し危機感を覚えるのだ。

自分がなぜその主張をするのか、ということに無自覚であることは、自分の主張が周りに及ぼす影響に対して無自覚であることと同じで、

それは、社会を作っていく私たち市民にとって、とても罪なことだと私は思うのである。

2015年11月17日火曜日

2014年5月22日

ちょうど1年半ほど前、私はこんなことを日記に書いていました。

~~~~~~~~~~~~~~~

2014522

就活を終えてみて、私の将来が輝かしいものになるかどうかは、今はさっぱりわからない。
けれども、輝かしいものに自分でしていくものだ、と気づけたことは、就活が少しは私の糧になっている証拠だと思う。

総じて、私の就活は、上手くいったとはいいがたい。
もともと不器用だったし、はったりもかませない、説明もへたくそ。
こんな私がどうして今までの人生を上手くやり過ごしてきたのかは、甚だ疑問だけれども、挫折と呼べる挫折を経験しないで私はここまできた。
そんな私が、これだけ壁に何度もぶつかったのは、就活が初めてだったと思う。
その壁を乗り越えたのか、壊したのか、避けたのかはよくわからないけれど、前に進もうと今は思えている。
前を向いて、自分の道を将来を切り開いていきたいと思えている。

My girls. Grow old along with me. The best is yet to be. If some decades later you look back on your time with us here and you feel that these were the happiest days your life, then I must say your education will have been a failure. Life must improve as it takes its course. Your youth you spend in preparation because the best things are never in the past, but in the future. I hope that you pursue life, and hold onto your hope and your dream until the very end of the journey.

私の愛する生徒たちよ。我と共に老いよ。最上のものはなお後に来たる。今から何十年後かに、あなた方がこの学校生活を思い出して、あの時代が一番幸せだった、楽しかったと心の底から感じるのなら、私はこの学校の教育が失敗だったと言わなければなりません。人生は進歩です。若い時代は準備の時であり、最上なものは過去にあるのではなく、将来にあります。旅路の最後まで、希望と理想を持ち続け進んでいくものでありますように。

花子とアンのブラックバーン校長先生には、励まされました。

ドンピシャでこの言葉が来たので、泣いてしまいました。


~~~~~~~~~~~~~~

この日、私は何やら決意をしていたみたい。

あのころから私は、何か変わったでしょうか。
前に進めているでしょうか。

でも、これからどうなるかわからないことだらけで、ふわっふわしていたあの頃の私より、
もう少し地に足がついて、リアルに物事を考えられている気がします。

輝かしい未来を作れるかどうかはわからないけれど、兎にも角にも目の前のやるべきこと、やりたいことに、正面からぶつかろう、そしてこなしていこう、と思っているのです。

そして、世の中のいろんなことに興味持って、吸収して、目の前の課題を考えていかんと、と思っています。

「ようよう考えてな。ようよう考えて進んだ道には必ず新しい朝が来る。
その道を信じて進んだらええのや」

新次郎さんの最も共感した言葉。

朝ドラフリークは、今も変わらぬようです。

2015年10月3日土曜日

再び、米を炊き始めました

最近、またコメを炊き始めました。

というのも、新潟にやってきて、不思議な縁のめぐりあわせで、コメタクというお米屋さん3人組に出会ったから。




学生時代、そう3月までは、近所のお米屋さんでお米を精米してもらい(白米と5分づきを半分ずつ買うのが好きでした)、お鍋(土鍋がない)で炊くのが日課でした。

なかでも、北海道のふっくりんこがお気に入り。

粘りすぎず、硬すぎず、冷めても美味しいと思ったから。

美味しいお米を食べているとき、幸せだな~と思っていました。




社会人になって、東京に進出し、大量の人と速すぎる時間の流れの中で、毎日やり過ごすだけでいっぱいいっぱいでした。

社会人になったし、お金を貯めようと思って、薄給を節約するために、自炊を頑張っていました。

スーパーの安いブレンド米を食べていました。

でも、ある日、精神的にも体力的にも辛くなり、全部どうでもよくなりました。

自炊、辞めよう、と思い、それからはほとんど自炊をしませんでした。



新潟にやってきても、新しい職場に慣れるまで、学生時代ずっと大切にしていた「食」、「おいしいと感じること」も忘れてしまっていました。

そんな中、コメタクのみんなと関わり始め、美味しいお米を食べたり、お米のことを知ったり、学んだりして、自分でも炊きたい、とようやく思うようになりました。




そして、新米の季節がやってきた!

最初に新米を手に入れたのは、私が魂を置いてきた北海道。

学生時代から私が関わっていた農家さんから新米を買いました。

おぼろづきとななつぼし。

うちのへぼい炊飯器(もらいものなのにごめんなさい)で炊くと、台無しになるので、

鍋で炊こう!と思い立ちました。

つやつやで一粒一粒しっかりしていて、美味しかった。

なにより、炊きながら待っている時間が至福のとき。



今日は、コメタクのごはん道場というイベントで、お米の保存、炊き方の知識と、新潟の新米を手に入れました。

低温保存と美味しい水が大事。

イオンでもらってきた、浄水を使って炊きました。

こうやって、お米を丁寧に炊いて、お米の美味しさをかみしめながら、ごはんを食べるのっていつぶりだろう。

この時間のためにきっと私は働いてお金を稼いでるんだ。

そして、私の農業関係のお仕事は、こういう時間をみんなが過ごせるために存在してるんだ。

そう思いました。

節約のための自炊じゃなくて、自分の生活を豊かにするためにごはんを作ろう。




そう心に決めました。
おぼろづき
おぼろづきの経歴カード
ごはん道場、お米の保存、炊き方
新潟産コシヒカリ新米




2015年3月8日日曜日

就職活動

真冬の札幌で、リクルートスーツ姿の学生をよく見かけるようになった。
3月1日からいよいよ今年の就活が本格始動するらしい。
懐かしいなぁ。

私も去年の今頃は、毎日雪のごとく降り積もる不安に押しつぶされそうになりながら、極寒の札幌、人混みの東京を行ったり来たりしていた。

就職活動を終え、1年弱が過ぎようとしているので、私にとって就活が何であったのかを書き留めておきたい。




一言でいえば、私にとって就職活動は、甘ったれて、現実から逃げていた私に活を入れてくれた、と思う。

【私が就活を始めるまで】

私は、大学1,2年生のころまで、国際協力師を目指していた。

小学生のころに住んでいたエジプトで出会ったその種の人間のかっこよさに惹かれ、あこがれていたからである。

私もそうなるんだと確信し、中学、高校、大学1,2年生は、国際協力への道しか見えていなかった。

そのために勉強したし、講演会にも出かけたし、海外にいってボランティアしたりした。

当時の中学生や高校生が「発展途上国を支援できるような職に就くことが夢です」と答え、講演会やイベントに参加すれば、その珍しさからちやほやされるのは当たり前だった。

「若いのにすごいね」、「若いうちから世界を股にかけて活動してるんだね」と言われる。

そのことに私は慣れてしまった。

どこかで、自分は「すごい人間なんだ」と思っていた。

でも、大学生の世界は広いもので、上には上がいるし、「国際協力」「グローバル学生」なんて珍しくもなんともなかった。

今時、国際協力サークルなんて大学の数以上にあるし、世界一周してる奴なんて5万といる。

すっかり自信を無くした。

見えていたはずの自分の進むべき道は一気に暗闇に包まれた。

気づけば、大学3年生。周りはみんな就職活動を始めた。

国際協力師を目指していた私は、そもそも、世の就活戦線になんて参加する気もさらさらなかったし、就活しようにもその自身も、気力も当時の私にはなかった。

どこへ進んでいいかわからない私は、路頭に迷い、「とりあえず」大学院に進んだ。

そして、流石にずっと学生するわけにもいかないな、みないな気持ちで、周りに流されながら、就活を始めてしまった。



【就職活動】
こんな感じだったので、そもそも、就職活動がなんなのかもきちんと考えることなく、就活に挑んでしまった。
しかも、1年先に就活が終わり、大手食品メーカーに内定し、みんなからすごい、と言われていた先輩が彼氏だったこともあって、私の就職活動は辛いものになった。

とにかく、彼より頑張らなきゃ、とか彼と同じように「いい会社」に入らなきゃ、とかそんなことばかり考えていた。

結局、大手食品メーカーにばかりを受けた。

50社くらいエントリーし、4月の時点で、4社になっていた。

食品メーカーは、3月末までに全て落ちた。

結局、残った4社のうち、3社からはほぼ内定をもらったから、よかったものの、私の就職活動は上手くいったとは言い難い。

上手く行かないのが悔しくて、どれだけ泣いたかわからない。


【就職活動で気が付いたこと】

4月初めの、絶望的な状況になって私は、ようやく自分の就職活動について、きちんと見つめ直すことをしたと思う。

私は、それまでの人生、ここぞというときに、失敗したことなんてなかった。

高校も、県下一の進学校で、旧帝大にぬるっと入れてしまった。

その学歴と、国際協力を目指していたときのチヤホヤされた経験のおかげで私は、褒められたい欲全開の人間になってしまっていた。

そして、私の経験を以ってして、入れないわけない、とどこか鷹をくくっていたとおもう。

世の大企業は、私を選んでくれると思っていた。

大企業の、しかも狭き門の食品メーカーに入れば、すごいって言われるんじゃないか、私の彼氏みたいに、と思ってそういう企業を受けていたのかもしれない。

自分が社会に出るときに、どこで、どのような形で社会にコミットしていくのか。

私が最高のパフォーマンスを以って社会に貢献できることって何なのか、どこなのか、を考えることが、就職活動なんだと気がついた。

大きい会社に入って、安定を手に入れ、会社に幸せにしてもらおう、とでも思わんばかりの受け身っぷり。

自分が、人の目を気にして、プライドばっかり高くて、そのくえ受け身などうしようもない人間だな、と思った。

人一倍負けず嫌いで、すぐに人と比べてしまうことが自分の首を絞めているということも、省みた。

自分自身が、自分自身の人生を通して、輝ける場所を探すことが就職活動なんだと気がついた。

【就職活動を通して】

結局、なんとなく始めた就職活動だったけど、私は、経験して本当に良かったと思う。

今の日本の就職活動は、就社活動だ、と揶揄されることも多い。

しかし、私にとっては、自分の人生の道をきちんと自分でかんがえて選び取る過程だったから、意味のあるものになったと思う。

一方で、就社活動になってしまいかねない現状も理解しているつもりだ。

日本のこの、高校、大学、会社、という人生のレールが一つしかないように見える風潮は、あまり好きではない。

もっと、いろんな道があって良いと思うし、実際にあるんだし、多様な道を知る就職活動であってほしいと思う。





2015年1月29日木曜日

家族経営と質の高い労働力

農業経営学の世界において、家族経営の優位性として語られるのは、「質の高い労働力」である。

「質の高い労働力」とは、「当事者意識をもった労働力」であるらしい。

しかし、この定説に、家族の絆の名のもとに「質の高い労働力」を搾取する構図を見出してしまったとき、私は絶望した。

だって、「質の高い労働力」とは、当事者意識(生活がかかっているが)ゆえに辞めない(反乱を起こさない)し、真剣に働く労働力だからである。

文句を垂れても生活はできないし、辞めてしまえば、職も生活の場も失ってしまうことになるのだ。

さらに、辞めないから作業に関しては熟練する。

だから、経営主は都合よく労働力を使う。

ブラック企業だ。

この、「質の高い労働力」として、利用されてきたのは、たいていの場合、農家の女性である。

おそらく、長い間、日本の家族経営はこのようにして、経営されてきたのであろう。

もしかしたら、「会社は大きな家族である」といわれ、更に男が一家を養うという、男性稼ぎ主モデルの日本の会社社会が長い間そうだったのかもしれない。


しかし、非効率的だとは思わないだろうか。

構成員一人一人の能力を最大限に引き出すべきなのではないだろうか。

実際に、妻が自身のキャリアを活かして、営業担当を務めるいくつかの家族経営は、ブランディングに成功している。

社会関係資本が重要視される昨今、構成員の社会関係資本を最大限利用すべきなのではないだろうか。

今までのように、「家の中に閉じ込めておく嫁」というのは、経営にとって良くないはずである。

2015年1月19日月曜日

「共働き家庭の子どもは「かわいそう」ですか?」


こんな記事が以前出ていた。

筆者が、働く女性に関する記事を書くと、「子どもがかわいそうでしょう?」と言われることに衝撃を受け、共働き家庭で育った筆者の体験談を書いている。


女子就活生のうち8割以上が、「結婚、出産後も働きたい」と考えている(マイナビ調べ。)にもかかわらず、
有職未婚女性の約6割が「結婚出産後は専業主婦になりたい」と考えているのである(ユーキャン・アイシェア調べ。)。


この矛盾は何だろうか。

きちんとしたデータがあるわけではないが、個人的には、2つの理由があると思っている。

一つは、就職後、女子が会社で働いていくことの厳しさに打ちのめされてしまうことだ。

よく言われる、「ガラスの天井」現象である。

もう一つは、「働きながら、母親になること」への不安だ。

これは、先日とあるイベントでお話を聞いた、株式会社スリール代表の堀江さんも仰っていたことだが、「自分の母親は専業主婦だった。自分も自分の親のようにならなきゃいけない」と思う学生が多い、ということだ。

「働きながら母親になること」は、おそらく今の若い女性にとっては、やったこともない未知の世界だから、不安も感じるし、当事者意識もない。

自信がないから、自分が働くことを諦めれば良いと思っている。

そんな問題意識から、スリールはワークライフインターンという、共働き夫婦の家庭生活を経験するインターンシップ事業を実施している。



この「働きながら母親になること」へのイメージが出来ない女性がいることは、私自身も共感する部分がある。

自分で言うのもなんだけれど、私の周りには優秀な女友達がたくさんいる。

私自身が修士2年なので、私の女友達たちも、ここ数年で就活を経験し、社会に出始めた年齢だ。

みんな、就活の頃は、働きたい!と思って、就活をしていた。

「働きたいけど、やっぱり子どもができたら、子どもの事を考えると、お母さんが家にいたほうがいいと思うから、どうしようかな。」

「今の仕事をしながら、子育てをできる気がしない。」

という声を何度もきいた。

しかし、働き始めた彼女たちと、結婚や出産について話していると、



そういう女友達の母親は、決まって専業主婦だ。

彼女たちには、「働きながら母親になること」を実践しているロールモデルがいない。

そして、働く母親をもつ子どもの気持ちも知らない、のだと思う。

最初に挙げた記事の筆者に対する「子どもがかわいそうでしょう?」という言葉も、それを表していると思う。

ちなみに、私の母親は、専業主婦を経て、今は仕事をもつ母親だ(最近、失職したのは内緒)。



働く母親のロールモデルに関しては、スリールのワークライフインターンが教えてくれるとして、

私は、働く母親を持つ子どもの気持ちの一事例として、自分の話を書こうと思う。




【私の家族】

私は一人っ子なので、3人家族だ。

母親と父親、私である。

私の母は、短大時代から所謂三高の父を捕まえ、そのまま結婚した。

当時にしてみれば、母は勝ち組だったに違いない。

その証拠に、母方の親戚の中で母は自慢の親戚になっているのがよくわかる。

結婚が決まった時は、母は商社の一般職としてOLをしていた。

結婚を機に、母は当然のように寿退社をし、専業主婦になった。

専業主婦になってからは、仕事で忙しく、月の半分は当直をこなす父を家庭で支えた(というと聞こえがいいが、当時の母の狭い価値観の下では、こうするのが当たり前だったのだと思う)

わたしと二人きりで過ごす日々だったと思う。

しかし、もともと学級委員をこなしたりしていた目立ちたがりの母が、専業主婦業が向いているわけもなく、私が小学校に入る頃から徐々に社会との関わりを持っていく。

小学校の図書館を子どもの居心地の良い場所に変えようと、母親たちによる図書ボランティアサークルを立ち上げた。

同じ頃、親業(詳しくは割愛、親学とは全然違います)のセミナーを受け、インストラクターの資格も取得している。

父親の転勤で名古屋に引っ越してからは、女性運動に携わる仲間に出会い、活動を続ける中で、力をつけていったのだと思う。

女性活躍推進に関するNPO法人を立ち上げ、父親の扶養対象から脱却。

そのNPO法人が、名古屋市男女平等参画推進センターの指定管理を任されて、施設運営をずっと担っていた(その施設が仕分けされちゃったので、失職中ですが)。



父は、医学生時代に母と出会い、母に押されるように結婚した(たぶん。父が何を思って母と結婚したかは知らないし、教えてもくれない)

大学病院につとめ、それからずっと勤務医生活だ。

私が小さい頃は、仕事でほとんど家にいない存在だった。

先に書いた母親の変貌ぶりを目の当たりにし、父が内心何を考えているかは知らない。けれども、結婚当時はこんな風になるとは、全く考えてもいなかったことだろう。


父と母が25歳で結婚してから、2年後に生まれた私は、現在25歳。父と母が結婚した年齢に達していることに、これを書きながら驚いている。


父親が家にいなかったので、小さい頃はママっ子だった気がする。

そして、一人っ子なので、わがままで甘えん坊の、一人娘である。




【母親が働いていることに対してどう思っていたか】

母親が、働き始めて、私は鍵っ子になったわけだが、私は少し大人になった気分で嬉しかった。

小学校には鍵っ子は、何人かいて、学校に鍵を持って行って、自分で開けて家に入る、というのがかっこいいと思っていた。

だから、私は、少し得意げな気分だったのを覚えている。



休日に父と過ごすことも多くなった。

最初は、父と家で二人で過ごすのが嫌で、駄々をこねていたこともあった。

でも、 そんなものはすぐに慣れた。

父と出掛けるのも普通になったし、父と色々なことを話すようになった。

あぁ、父はこんなことを考えていたんだ、とか、父の仕事はこんな風なんだ、とかいろいろなことを知った(よく喋る父ではないので、未だにわからないことはたくさんあるけれど)。

父は晴れて、家庭生活の中に存在感を取り戻したのだった(たぶん)。



両親なしで過ごす時間も、おおくなった。

でもそれは、友達との時間の増加でもあった。

学校から帰れば、公園に遊びに行ったし、習い事もたくさんしていたので、一人で行った。

名古屋から岐阜県まで、毎週一人でバレエのお稽古に電車で通っていた。

他の地域から電車で通ってきていた友達とも仲良くやっていた。

そうすると、なんでも一人でできるようになるものだ。

友達作りも上手になったし、一人での暇つぶしも得意になる。

なんかあったときには、周りの人に助けや協力を求める術も身に着けた。

だんだん、一人が気楽になってくるものだ。

学校から帰ってきて母がたまたま家にいたりすると、あれこれ言われることも増えるので、うんざりするようになっていた。



そして、母が働き出して、私が何よりうれしかったのは、母親がそれまでになくイキイキし始めたからだった。

私が小さい頃、思うようにいかない私という子どもを抱えて、恐らく育児に行き詰っていたのだろう。

今思えば、ある意味、虐待っぽいことを私にしていたかもしれない、と思う。

たたく、蹴るは当たり前だったし、母にどつかれて窓ガラスにぶつかって、そのままガラスを破壊したこともある(けがをしたかどうかは覚えていない)。

「私はボールじゃないのに」と泣き叫んだこともあった。

そんな母親が、社会進出を果たすにつれて、自分に自信を取り戻し始めているのがわかった。

次第に、私に手を挙げることもなくなって、わたしと母という一人対一人できちんと話し合えるようになった。

専業主婦の頃の母の話と言えば、おそらく私のことばっかりだったと思う(私も幼かったので、あんまり定かではないけれど)。

それが、社会の話とか、地域の話とか、政治の話、母が素敵だと思った人の話、本当に多岐にわたるようになったと思う。

父親とも母は色々な話をするようになったと思う。

そして、自分の仕事のことを、自信をもって話すようになった。

それだけでも、家庭の中の会話に彩が増えた。

もちろん母親の興味を全て受けていたころからすれば、母の興味は私以外のところに大概は行ってしまった。

それでも、母が輝いてるのが、私は嬉しかったし、母は日本社会にとって大事な仕事をしている、という認識があったので、母は私の憧れに変わっていった。

仕事をしている母親は、今でも私の憧れだ。

それから、母親の想いを一身に受けるという重圧からの解放も喜ぶべきことかもしれない。


【共働き夫婦の子どもはかわいそうか】

私自身は、母親が働き始めて、自分がかわいそうだと思ったことはない。

私自身は、「共働きなんて子どもがかわいそう」という人の意見は、全くもって理解できないたちだ。

私は働いている母が自慢だし、一人で何でもできるようになったから、自分の人生にとっては、とても良い影響を与えてくれたと考えている。

別に、学校から帰って、おやつがなくったって、自分で引き出しから出せばいいし、近所の駄菓子屋で友達とあれこれ喋りながら買うおやつだって楽しいじゃないか、と思う。

母親が仕事から帰れば、夕飯の時間に、今日あった出来事を話せばいいし(どうしても困ったときは、母の仕事場に電話したりもしたが)、母もまた仕事の話やそこで出会った人のことなどを話してくれたので、私の人生は豊かになった。

子どもは、母親が思っているより、しっかりしているし、母親がべったりついていなくても、案外なんでもできてしまうものだ。

母が仕事で失敗することもある一人の人間であることも理解していったし、だからこそはらをたてることもあるんだと認識するようになった。

母が私を一人の人間として扱ってくれるようになったのと同じように、私も母が一人の人間であることを知った。

それは、私と母の関係性にとって、とても良かったと思う。

だから、かわいそう、というより、むしろ幸せだったと思う。



【これからどうしていきたいか】

私は、働いて社会と繋がりをもって、自信を持っている母を誇りに思っている。

だからこそ、自分も「働きながら母親になること」が、目標だ。

「働きながら母親になること」に不安がないわけではない。

でも、母の周りには、「働きながら母親になること」を実践してきた先輩がたくさんいる。

困ったことがあれば、母だけではなく、それ以外の人に頼ることを、母が働き始めたことで私は身に着けたので、きっと大丈夫だと思っている。

だから、「働きながら母親になること」を目標に、4月から働いていきたいと思っている、社会人予備軍です。


この体験談が、少しでも、働き続けたい女子学生の励みになれば、と思う。

2015年1月10日土曜日

長く続けることについて

最近、なにか物事を長く続けることって、それなりに意味のあることなんじゃないかと思う。

長く続けることで、周りの環境も、人間関係も、自分でさえ変わることがあるからだ。


私は大学2年生の時から続けてきたアルバイトがある。

現在修士2年なので、5年も続けてしまった。

何をするバイトかというと、ホテルの結婚式と宴会のサービスのバイトだ。

ホテルの宴会の配ぜん人て、知っている人は知っているかもしれないが、とても忙しい。

宴会や披露宴会場のスタンバイから、サービス、片付け、全部時間内にこなさければならない。

時間内(うちのホテルは結構無茶ブリな時間設定)にスタンバイもサービスも全部こなしつつ、お客様に最高の時間を提供する(ことを目指さなければならない)という、頭も体もフル回転なお仕事だ。

(ちなみに、うちのホテルは、時間設定と人員配置設定が無茶ブリなので、最高の時間をお客様に提供は出来ていないと思います。それでも、やはりサービスに従事する者としては、それを目指すべき、と思って働くわけです。少なくとも今の私は。できてないけど)

なので、基本的に働いている人はみんなピリピリしているし、裏では機嫌が悪い事が多い。

しかも、ホテル業界は、ブラック業界なので(「ホテル業界 ブラック」でググってみてください)、理不尽に怒られるし、怒鳴られる。特に社員さんが。

管理職級の人たちも、理不尽に怒られてきたし、怒鳴られてきたし、殴られてきたし、労基法破られてきたので、自分も部下にしちゃう、というよくある悪循環が起こっている(この悪循環にも物申したいけど今回は割愛)。

そういうのもあって、忙しくなってくるとみんな本当に機嫌悪い。

どこにでもいるような新人に嫌味を言うおばさんも、例にもれずいる。

そんな状況のホテルの宴会部門に、友達もいないのに、一人で入ってしまったので、最初は地獄だった。

わからない、理不尽、孤独の三重苦。

仕事もわからないから、間違えたり、失敗したりする。

私はたぶんひどく注意力散漫でずぼらで雑な性格なので、何度失敗したかわからない。

こっぴどく怒られる。自信をなくしまくった。

それでも、自分が失敗したんだし、仕方がない、と踏ん張った。

でも、わかんないことをわかんないと聞くと、なんでそんなことも知らないんだ、と怪訝な顔をされる。

明らかに八つ当たりされる。

はぁ?と逆切れしたくなるけれど、愚痴る友達もいないので、我慢する。

学生アルバイトの先輩たちは、先輩同士で仲が良く、その輪に入れない。

休憩になったってしゃべる人がいない。独りおにぎりをかじる孤独な日々。

辞めてやろうと、何度思ったことだろうか。

私のことなので、そう思っていたのが顔とか態度に出ていたのかもしれない。

どんどん孤立していった(と自分では思っている)。

早く辞めたい、と思って、他のバイトを探したり、ホテルバイトの回数を減らそうと、家庭教師をはじめてみたりしたこともある。

それでも、細々となんとなく続けてきたのは、シフトの融通が利いたことが大きいけれど、一度始めるとなかなか辞められない私の性格もあったかもしれない(特に習い事とか部活とか他人が関わることは)。

続けていると、ようやく3年目くらいから、友達ができ始め、古株なので頼られるようになった。

私が入ったころの学生アルバイトはみんな卒業していっていなくなったし、後輩が増えた。

社員さんも、いつも一人ぼっちだった私の扱いにだんだん慣れてきて、話しかけてくれるようになった。

英語が話せるので、重宝されたこともあった。

5年目の今となっては、社員さんですら私より後に入社してきた人が結構いる。

飲み会にも誘われるようになって、出ればまた仲良くなる。

そうすると、いつのまにかバイトに行くのが楽しくて仕方なくて、毎月の給料の最高額を更新していた。



ここまでくるのにすごい時間かかったなと思う(私はいつもそう)。

それでも、どんなに嫌でも、孤独でも、長く続けたことで、様々な状況が変化したと思う。

上司も代わったし、嫌いだった人も卒業していったし、怖かったおばさんも私に慣れて仲良くしてくれるようになった。

私も、仕事も覚えたし、失敗も減ったし、人に慣れて明るく振る舞えるようになったし、お客さんに言感謝されて嬉しいこともあった。

仕事ができるようになれば自分も楽しいし、周りと仲良くなれば、その場所は意心地の良い場所に変わる。

そういう場所に対しては、自分自身もより良い環境を作りたいと思えるようになった。

どうしたらお客様が喜んで気持ちよく帰ってもらえるだろうかと考える余裕もできた。

モチベーションて、上下するものだ。

自分が変わらなくても、周りが変わるかもしれないし、周りが変わらなくても、自分が変わるかもしれない。


だから、どんなに嫌でも、辞めてやろうと思っても、ある程度の期間続けていく、ということはそれなりに意味のあることなのだと思う。

「変化」を待ってみるのも、必要なことなのかもな、と思う。

というのが、私がアルバイトで学んだこと。


これ、就活で言えたら、もうちょっとましなアルバイト体験談話せたと思う。